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美濃路は名古屋の熱田にある東海道の宿場町「宮宿」と岐阜県の中山道の宿場町「垂井宿」を結ぶ街道です。宮宿から西に向かう東海道の正規ルートは「七里の渡し」で海を渡りますが、そのリスクを避けて中山道に抜けるルートとして重宝されました。今日はこの美濃路を北から南に走ります。
今回の旅は、岐阜県不破郡垂井町にある垂井城跡からスタートします。現在は専精寺という寺となっています。城跡から少し北上し南宮大社の鳥居をくぐり、垂井宿の宿場町に出ます。相川を渡り少し東に進むと中山道と美濃路の追分があります。中山道はほぼ真東に進み、美濃路は南東の名古屋方面に進みます。
JR東海道本線の線路を渡り、国道21号に出ます。本来の美濃路は国道の一本北の細い道ですが草が生い茂っているため国道で東に進みます。途中で大垣市に入り、国道から側道に降りて旧長松村の集落を南に走ります。県道31号に出てしばらく東に進み、旧久徳村のあたりから一本北の道を走ります。旧久徳村には久徳の一里塚が昔に近い姿で残っています。
杭瀬川沿いを走り旧塩田港があったところまで南下し川を渡ります。再び県道31号に戻り、東に進んでいくと大垣城の城下町に入ります。水門川に沿って北上して行き、城下町の中心には宮宿から数えて7番目の美濃路の宿場町である大垣宿の本陣跡があります。さらに城下町を北上していき再び水門川を渡ったところで右折し東に進みます。城下町を抜け、イオンタウン大垣の前あたりには三塚の一里塚跡があります。旧三塚村と旧今宿村の境界を北上し、JR東海道本線の線路の手前で右折してまた東に進みます。しばらく進むと木曽三川の一つである揖斐川に突き当たります。昔は佐渡渡(さわたりのわたし)という渡船で川を渡っていましたが、国道21号で渡ります。橋を渡ると安八郡安八町に入ります。
揖斐川の東側には結神社があります。奈良時代より以前に創建されたとも伝えられており、織田信長が長篠の合戦の前に必勝祈願をしたとも言われています。今ではその神社の名前から、縁結びにご利益があるとして恋人の聖地的な扱いもされることがあります。
結神社から少し南下し美濃路に戻ります。東に進み再び大垣市に入り、旧墨俣村に入ります。宮宿から数えて6番目の宿場町である墨俣宿はその先の長良川を渡るための渡船場として栄えました。また近くには木下藤吉郎、後の豊臣秀吉が織田信長の命で築いたと言われる「墨俣一夜城」があったと言われています。ただし現在ある城は大垣城の天守を模した博物館です。
木曽三川の一つである長良川を渡ると少しだけ岐阜市に入り、すぐに羽島市に入ります。小熊川・現在の境川には小熊の渡し跡があり、かつてこの川は尾張国と美濃国の国境でした。川沿いには小熊の一里塚跡があります。旧坂井村で堤防道路を下ります。この先少しの区間、美濃路は喪失しているので県道151号を走ります。現在の足近町で再び美濃路に戻ります。この辺りは、前の墨俣宿と次の起宿の間の宿があったところです。
名鉄竹鼻線の線路を渡り南東に進むと正木小学校の敷地には不破一色の一里塚跡があります。さらに南東に進み旧大浦村に入ります。大浦の金比羅神社には起(おこし)の美濃側の渡船場跡の説明書があります。実際の渡船場はさらに東の河川敷にあったようです。
濃尾大橋で木曽三川の一つ・木曽川を渡り、愛知県一宮市に入ります。木曽川沿いの金比羅神社には尾張国側の起渡船場跡があります。また美濃路を木曽川沿いに少し南下すると起の船橋跡と高札場の跡があります。船橋とは将軍などが川を渡る際に船を並べて作った橋のことです。この少し南にある起宿脇本陣跡に立ち寄ります。起宿は宮宿から数えて5番目の宿場町です。ここにある旧林家住宅は船庄屋であった林家の家屋を再現したものです。となりにある美濃路x木曽川ミュージアムと共に無料で見学することができます。
名鉄尾西線の線路を渡りさらに南東に進むと高木一里塚跡があります。ここからしばらくは旧街道らしい街並みは少なくなります。県道14号の手前で稲沢市に入ります。さらに南東に進むと宮宿から数えて3番目の宿場町である稲葉宿に入ります。この辺りには旧街道らしい街並みがよく残っています。稲葉宿本陣跡を右折して少し南に進むと小沢一里塚跡がありますが、現在は立札があるのみです。現在の「稲沢」の名前はこの「稲葉」と「小沢」から一文字ずつとったものです。
美濃路を南に進んでいくと清須市に入ります。旧一場村を通り、名二環とJR東海道本線、東海道新幹線の高架下をくぐると宮宿から数えて2番目の宿場町である清洲宿の本陣跡があります。この近くの清洲古城跡公園にかつては清洲城がありましたが、現在は五条川の対岸に復元されています。
五条川を渡り、川沿いに南下していき旧須ヶ口村に入ります。須ヶ口の一里塚跡の前を通り過ぎ、新川の手前には以前に走った津島街道との追分があります。西枇杷島の町を抜けると今度は岩倉街道との追分があります。
東海道と美濃路の追分にはかつて源太夫社がありましたが、現在は熱田神宮の境内に移設されています。江戸時代、宮宿こと熱田宿は東海道唯一の海路区間である「七里の渡し」の渡船場があり、また脇街道である佐屋街道や美濃路の起点でもあったため、かなり大規模な宿場町でした。旅人の多くはそこに古くからある熱田神宮を参拝し旅の安全を祈念したのでしょう。