
(画像はマウスオーバー又はタップで拡大できます)
東海道の見附宿から御油宿までを迂回する本坂通は女性に好んで利用されたため「姫街道」とも呼ばれます。好まれた理由は諸説ありますが、新居宿にある関所の厳しい検閲を避けたためというのが一般的な見解のようです。今回はこの「姫街道」こと本坂通を走ります。
スタート地点は愛知県豊川市、東海道御油宿にある「御油の松並木資料館」です。東海道を走り姫街道との追分まで向かいます。追分である県道368号沿いには道標と秋葉常夜灯が残っています。姫街道は鳳来寺や秋葉山本宮秋葉神社に参拝するためにもよく利用されました。
国道1号と名鉄名古屋本線を越えて県道5号を東に進みます。豊川稲荷の南を通り、以前走った「伊那街道」と交差し、JR飯田線と名鉄豊川線を渡ります。国道151号を越えてからは国道362号となり南東に向かって走ります。当古の集落にはかつて豊川を渡るための渡船場があり、昔の街並みの雰囲気が少し感じられます。
豊橋市に入り、また東に向かって走ります。和田辻交差点で以前走った「別所街道」と交差します。長楽で吉田宿方面に向かう道との追分を過ぎ、さらに東に進むと姫街道の宿場であった嵩山宿に入っていきます。嵩山が正式な宿場となったのは1707年の宝永地震で東海道が不通になって以降です。
嵩山から先は車が入れないため、徒歩で姫街道の最大の難所である「本坂峠」を越えます。歩き始めてしばらくすると「嵩山の一里塚」があります。姫街道では唯一当時の姿を留めている一里塚です。一里塚を過ぎると道が細くなり始め、旧国道を渡るとさらに道は険しくなります。上っていく途中には茶屋場跡や水場跡などがあります。「弘法水」はかつて弘法大師がこの道を通った際に喉を潤したと言われる水場です。つづら折りの険しい坂を上っていくと本坂峠の頂上に到着します。ここからは静岡県浜松市に入ります。下っていく途中には「鏡岩」などがあります。何度か旧国道を横切り下っていくと国道362号に出ます。
車に戻り東に走ります。本坂の集落にはかつて関所がありました。また一里塚跡と馬頭観音像群もあります。猪鼻湖にそそぐ川を渡り姫街道の宿場町であった三ヶ日宿に入ります。昼休憩で「JAみっかび」に立ち寄り、三ヶ日で生産が盛んなみかんをつかった「みかんソフト」を食べます。
車に戻り三ヶ日宿を走ります。宇志の茶屋跡を通り過ぎ、みかん畑の中の道を上っていきます。東名高速道路を渡り大里峠を下っていきます。途中、東名高速三ヶ日I.C.辺りでは旧街道は一部喪失しています。
県道308号を渡り、姫街道第2の難所である「引佐峠」へと続くみかん畑の中の道を走ります。途中から車は入れなくなるためまた徒歩となります。歩き始めてしばらくは舗装されたなだらかな道が続きますが、途中からつづら折りの険しい坂道となります。この坂は1729年にベトナムから長崎に連れれ来られた象が江戸の徳川吉宗に献上されるために通った道であるため「象鳴き坂」と呼ばれます。奥浜名オレンジロード沿いに進んでいくと引佐峠の頂上に到着します。しばらく峠を下っていくと途中から浜名湖を見ることができます。「姫岩」を通り過ぎしばらく下ると車の通ることができる道に出ます。
車に戻り岩根の集落を走りますが、またすぐに車の通れない道となるため徒歩となります。石畳の道を上っていくと浜名湖のよく見える景勝地「小引佐」に到着します。車に戻り東に走るとまたすぐに車の通れない道となるため歩きます。山田一里塚跡を通り過ぎて少しすると今川義元の家臣であった山村修理の墓があります。徳川家康に反発し気賀一揆を主導しましたが敗れ、この地で自刃したと伝えられています。徳川家康はここ気賀で700人以上の捕虜を処刑したと言われています。
車に戻り、姫街道の宿場町であった気賀宿に入っていきます。途中、「気賀関所」に寄り道をします。また「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」にも立ち寄ります。近くには地震除けの神様を祀る細江神社があります。また地元の人が手形不要で行き来できるようにした「犬くぐり」が残されています。
気賀宿を過ぎると道は県道261号となります。都田川を渡り、県道を外れしばらくするとまた車の通れない道となります。「長坂」と呼ばれる細い坂道を徒歩で上っていき、老ヶ谷一里塚跡付近から車に戻ります。県道261号に戻り南東に進んできます。道沿いには旧街道の松並木が今もよく残されています。
元追分交差点には道標が残されており、ここから姫街道は三つにルートが分かれます。一番古いルートはここから東に進み市野宿を経由して見附宿に至るルートです。しかしその後は浜松宿へ向かう道が主とされ市野宿は衰退しました。今回は浜松宿に向かうルートを走ります。国道257号を南下し、かつて浜松宿のあった浜松市の中心部に入っていきます。連尺町交差点あたりで道は曲尺手となり、このあたりに浜松城の大手門前の高札場があり姫街道の起点の一つでした。
最後に浜松城に立ち寄ります。1570年に徳川家康が入城して曳馬城(引間城)から浜松城と改名し、浜松の城下町の基礎を築きました。明治時代になると廃城令により天守は取り壊されましたが、1958年に復元されました。